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ひも

ひも 道明新兵衛(著) 学生社 1963年
上野池之端にあるひも屋の七代目・道明新兵衛が古今東西のひもを紐解きながら、とかくひもについて門外漢だった私たちに、ひもの素晴らしさを懇切丁寧に説いてくれる。
全世界のひもマニアにとってマストの書、それが、道明新兵衛著『ひも』だ。
著者は冒頭、日本に息づいてきたひもの伝統が無碍に見過ごされていると説く。
芳醇な歴史がありながら、ひもは実生活にあまりに身近だったため、研究の対象にすら上らなかった。
その「ひも差別」ともいうべき現代の実情が、生まれて以来ひもの道一筋に育ってきた著者をして、筆をとらせたのだ。
最初の章は「ひもの宿命」について割かれている。
ひもは一般的に、付属物としての側面が強い。
しかしひもを家業とする新兵衛にとっては、そのひもこそが全てなのだ。
十代の頃、お得意様の美術収集翁の家に招かれたときの思い出から、本書は始まる。
彼は、ひもについてまだかけだしのに新兵衛に、所有の巻物を見せながら講釈をした。
しかし、一通り講釈を終えて経典をしまおうとしたとき、経典のひもの部分が少しほつれてしまった。そして彼は、そのほつれたひもを指でむしりとってしまう。
新兵衛これに仰天し、「先生!先生ほどの美術愛好家が、ひもをむしり捨てるなんて心外です!私にはそれも大切な研究材料です!!」と、若気の至りで叱責してしまう。
先生は怒らずに「これは失敬した」と、捨てたひもをまた一緒にしまったのであるが、ひもの宿命とは、さほど軽く扱われてしまうところにある。
正倉院でも、シルクロードを渡ってきたひもが「くずひも」として大量にガラス瓶に納められ、倉の隅のほうに追いやられているものがあるらしい。
ひもの存在性は「あくまで従属的なもので、決して主役にはなれない」(p19)ものなのだ。
しかし、そんなひもにも、道明新兵衛は無限の愛を注ぐ。
謎のひも(p38)にワクワクし、まぼろしのひも(p71)に思いを馳せる。ただのひも(p103)にも目配りしつつ、産科のひも(p158)や、山の「ひも」ザイル(p159)にも応える。新しいひも(p162)に感嘆しつつ、パリジェンヌの着けたひも(p204)でこの書は終わる。
彼は、どう頑張っても主役に立てないひもに、こうしてスポットライトを当て続ける。
まるでマザーテレサのように。
ひもが織り成す芳醇な世界。
ぼくは、ひもを邪険に扱いすぎていた自分に、思わず恥じ入ってしまった。
たとえば、パンツのひもからでも、世界は始められるだろうか。
答えは道明新兵衛著『ひも』にある。
非常に勇気づけられる本だ。
・デラ
いけちゃんとぼく

あぶら(背脂)が乗ってる西原理恵子の初絵本。
エロ本、ギャンブル本出身とは思えない「毎日かあさん」のベストセラーっぷりには
さすがサイバラだとしか言いようがない。そして美大行ってたとも思えない。
「これ絶対愛ちゃんが塗ってる」とサイバラファンなら疑うこと間違いなし。
絵本じゃないけど「少年文芸」で谷川俊太郎の文章に絵つけてますな。
サイバラ漫画(この場合は体張ってない漫画)は「こども」がよく出てくる。
ちくろ幼稚園、ゆんぼくん、ぼくんち、女の子ものがたり、
はれた日は学校をやすんで(これはこどもではないが)など。
「いけちゃん」を初めて読んだときに思ったのは
これは鴨志田穣が見ていたアレではないか?ということ。
サイバラ漫画は(本人は言われたら絶対嫌がりそうだが)叙情的である。
「いけちゃんとぼく」のラストは賞賛を浴びているが
それは「今までのサイバラにはなかった」ものを初めて描き出したからだろう。
「泣ける」サイバラ漫画は数多い。比較的初期の「ゆんぼくん」だってそうだ。
スピリッツという舞台で、よく見るととんでもない言葉が混じってることで有名な
「ぼくんち」もそう。挙げたらキリがない。しかし「いけちゃん」で読者が流す涙は
まったくの別物ではないかと思う。純度が高い。気がする。
後半ギリギリまでは「サイバラ」なのだ。
海の近い村、揺れる草、魚肉ソーセージ、たまごやき、暴力、死。これらは何作品かの
漫画に共通している。サイバラの描く「すき」という表現は、どんな恋愛漫画でも
足元に及ばない、秀逸な感情表現だ。
「男の子はどこかへ行ってしまう」というのも何作品かに描かれているが、
これはサイバラが鴨志田穣と一緒になってからの表現ではないだろうか。
鴨ちゃんに対しても、自分の息子に対しても思うのだろう。
しかしそれはさみしいけれど悲しいことではない。気がする。
わたしがサイバラを読み始めたのは高校生の時だった。年齢だけは大人になった。
「パーマネント野ばら」の世界を分かったときに、あ、わたし少し大人になってる
かも。と思った。田舎の娘なんで入りやすい世界なんよね、サイバラ漫画。
わたしがサイバラを贔屓しているのは、サイバラがよく見る夢と同じだからだろう。
田舎で、みんなができることが出来ないで、野原の中にひとりで立っている夢。
(これは「毎日かあさん」4巻でおとなになっていたのでうれしかった
作風に影響を与えたのは鴨志田穣ではないかと思う。
「雨のカーテン」をサイバラに見せた鴨志田穣の感性を、サイバラは受け継いでいる。
200万円の亀をたいへんなことにしてしまうサイバラですら、家の権利書を古本と一緒に
縛ってかなり危険なところまでやらかしたあのサイバラですら、鴨ちゃんに贈られた
「雨のカーテン」という贈り物を大切に宝箱(たぶん菓子箱)に入れ、ていねいに
包んであるのだろう(風呂敷で)。
そういや昔サイバラがキャラデザとかやったゲーム出てたね。山崎一夫ゲーム(麻雀)。
あれって卑猥な言葉を入力するといいらしいよ。何かに書いてあった。
・フラニー
おやすみプンプン

プンTを着ている人をよく見かける。
ロックTを着ている人と同様、小さな自己主張だ。
そのような服装を好む人間は、矛盾して人と同じ格好をするのが好きではない
気がする。プンT意外と着やすいからびっくりした、という話。タグかわいいよ。
浅野いにお。「素晴らしい世界」からの絵の上達は目を見張るものがある。
わたしは元々はよしもとよしともが好きだったので、背景の雰囲気に魅力を感じた。
(作風、雰囲気、流れる空気など、まったく違う。全然似ていないのだが。
頑張って考えたけど「アヒルの子のブルース」と「素晴らしい世界」の世界観が
なんかアレでいいよなー、くらいではないだろうか。やっぱ似てないけど)
電線、アスファルト、空、雨、虹、店先、写真にしてしまうと陳腐なものになってしまうのに
漫画の表現でこれを使われるとすごく世界に入りやすい。
よしもとよしともは徹底して手描きだが、浅野いにおは写真を処理して効果的に使用
している。漫画家なら描け、というのが正統派の意見なのだろうが、このくらいの
処理のバランスを保てると、手法としてはアリなのでは。
「おやすみプンプン」は、もう完全に出来上がった世界、予定調和なのではないかと思う。
今までの連載、GX、QJ、ヤンサンとそれぞれの雑誌の特性に合わせた漫画を
浅野いにおは軽々と描き続けている。いちばん売れているとされる「ソラニン」では、
新規の読者がついただろう。
しかし「ソラニン」は、どういうつもりで描いていたのかを少し考えてみる。
完全な「売れる法則」を使いながらも、浅野いにおの特徴は消えてはいない。
編集部の思惑や売上に関係なく、次の漫画に読者をを巻き込むための「ソラニン」だったのでは
ないかとすら疑ってしまう。「ホログラフ」で読み始めた人なら「ソラニン」には物足りなさを
感じるだろうし、逆なら不快感を覚えるか、引き摺られて沈むか。
「おやすみプンプン」は2巻までは単調だ。(おもしろくないわけではない)
プンプンというキャラクターの表現は、かわいらしく、わかりやすく、しかし異世界だ。
これが吉田戦車でいう「かんたんメカ」としてのの表現だったらそれはそれでおもしろいんだが。
3巻で劇的に変貌する。2巻までの軽い読みやすさは3巻の中で徐々に喪失していく。
そして改めて1巻2巻を読み返してみると、闇が潜んでいることに気付かされる。
あと細かいネタ(抹茶ミルクおかわりしていいですか)の再取込みなどにも気付かされる。
これから彼らはどこへ向かうのだろう。
その流れ星の行き着く先は、いったいどこなのか。
ハルミンがいなくなり、関は心的外傷を負い、小松は目に狂気を宿し、清水は神様を見続ける。
その中で唯一、プンプンだけが普通の(とは言えないが)生活を送っている。
中学生らしく恋をして、健全に悩んでいる。
「おやすみプンプン」というタイトルの言葉は1度だけ作中で使われている。
とてもやさしい意味として。しかし本当にそうなのだろうか?「おやすみプンプン」という
言葉の意とするものは、もっと違ったところで出て来るのかも知れない。
3巻では小野寺雄一の物語が丁寧に描かれている。主人公であるプンプンを置き去りにして
なぜ小野寺雄一にスポットライトをあてているのかがとても気になる。と思ってたら
ヤンサン休刊ってどういうことよ?タイミング良すぎじゃないのちょっと。
今月からスピリッツで連載再開だが、ヤンサンとスピリッツの雑誌の方向性の違いの中で
浅野いにおがどれだけのことをしてくれるか楽しみである。と思ったら浅野いにおって
確か最初はスピリッツに持ち込んでたような。じゃあ結果的にはいいのか。そうか。
わたしは「素晴らしい世界」から入ったが、2巻の巻末、スタッフの名前を記してある
次のページで、どう考えても浅野いにおはそんなこと言うわけないだろう的な言葉が
あるので、未読の方は是非確認して欲しい。
主要キャラの「背景としての家庭」が順々に明らかになっていく中、
清水の母親の手が気になる。マニキュアに細い指。ドアからよく手を振っている。
「手」しか出てきていないのだが、その位置がどう考えてもおかしいのだ。
背筋が凍った。
とにかく布石が多い。単行本を揃えて何度も読み直さないと気付かないことが多い。
そして単行本(限定版)にはオマケがついてくるのでちょっとうれしい。
あと扉の入り方が天才的なので、雑誌とはまた別にたのしめる。
(「素晴らしい世界」の作中タイトルの入れ方も好きだ)
最後に読者が聞かされる「おやすみ」に期待と恐れを抱きつつ、スピリッツ立ち読みしてこよーっと。
「ソラニン」映画化って本当すか?音楽がアジカンてマジすか?どこ行くんすか?
「種田」と「芽衣子」の名前って繋がってねえ?「ソラニン」だし。カレーだし。
とかおもった。そしてわたしはカレーにはじゃがいも入れない派です。
タスクかわいいよタスク。(「ひかりのまち」に触れなかったので思い出したように補足
・フラニー
志集
「志集」である。
これは、新宿西口にときおり出没していた街頭詩人(女)から買ったものだ。
陰の薄そうな女性が柱の陰に立っている。
そして、プラカードを肩から提げている。
そこには「 志集 300円 」と大書されている。
彼女に声をかけると、懐から一冊取り出す。
藁版紙をホチキスにて製本しただけの、簡素な冊子。
夫婦連名の詩。
それがそれだけが、この志集のすべてだ。
唯一評価できるのは、表紙をめくったページに記されてある
「 詩は志であるべきだ 」
の言葉だけであるが、詩に志を持ち込んではならないと思っているぼくには、縁の遠い言葉である。
ネット上を見ると誰も語っていないので、一応、言わせてもらう。
この冊子には決して詩など書かれていない、と。
私が手にした第三十三号「死なない」では、恐怖についての文が多い。
抜粋しよう。
と思ったが、最後のページに転載を禁じている旨、彼女の神経質そうな文字で書かれてあった。
呪われそうなので、止めておこう。
「心」や「愛」や「存在」などと言う言葉が、無自覚的にぼんぼん出てくる。
新聞の投書欄に書かれてあるようなことを、そのまま詩と語ってるようなものばかりだ。
自費出版レベルと言えよう。
どうしようもなく不毛だ。
しかしぼくは、こんなにコケにしてもなお(あるいはそれゆえに)、彼らを詩人と認定してしまう。
彼女は20年以上も新宿の街頭に立ち尽くしながら、この志集を売っているのだ。
その怨念めいたものを、その不毛をこそ、ぼくはどこまでも賞賛したい。
言ってしまえば、詩など、書いてはいけないものなのだ。
特に、自分の心情を吐露しすぎた言葉を「詩」という形式で繰り出すのは、一番恐ろしい。
自分に酔いすぎている、そんなケースが多いからだ。
しかし、20年以上である。
20年以上も酔っているのなら、それは単純な酩酊ではない。
一本筋の通った酩酊だ。
一本筋の通った不毛だ。
そして、それでも書き続ける不毛にこそ、詩は宿ってしまう。
彼らの意図に沿っているのか反しているのか、それは分からないが、この事態には確かに詩がある。
まず立つことが最初にあり、それに理由をつけるための方便として志集売りになった、おおかたそんな具合だろう。
いや、そうあってくれ頼む。
そうであれば、批判など出来ようもないからだ。
批判する側とて、その生に理由など無いのだから。
裏書に2003年と記されてあるのを見ると、どうやらぼくは学生時代に買ったようだ。
あれから彼女を見ていない。
お元気なのだろうか。
いつまでもあのままでいてほしいものだ。
という具合で書いてたら腹が減ってきたので、きゅうりでも齧ることにする。
ぼりぼりぼり。
・デラ
タイマ

乙女のカリスマ(これ誰が言い出したんだ)嶽本野ばら本。
「chocolate cantata」を書き上げた次の日に逮捕されるという壮大な
ネタフリ後の復帰作。「下妻」レベルならある程度のロリータメゾン各々の
特性を知っていれば充分楽しめるが、他の著作は様々な文学作品から
引っ張ってくるものが多く、BABYを着た乙女がPCに向かってぐぐってる姿が
想像できて朗らかな気分に浸れる。本しか友達がいない文系男子は原宿にでも
行ってみるといい。愛と勇気しか友達がいない人はやさぐれてトルエンでも吸ってりゃいい。
今回はnirvanaが登場。お約束の「セックス・ドラッグ・ロックンロール」を忠実に
守りつつ乙女テイストに仕上げた逸品。傑作です。褒めまくります。
登場人物を「カートとコートニー」に置き換える一見青くさい椎名林檎のような手法も
野ばら先生にかかればちょっとクラシックなカフェで1日10個限定のおいしいケーキを
別に列んだわけじゃなくてたまたま食べちゃったのくらいなスイートな軽やかさに昇華。
「Smells Like Teen Spirit」くらいなら聴いたことあるレベルに充分に対応。
もうちょっと世界にハマりたいBABY乙女はハイソックスにワンストラップシューズで
タワレコに走って行って棚の前で人差し指を唇にあてながら小首を傾げたりするのだろうか。
「ロリータ」と「パンク」は同じ時空に存在しうるもの。
岡崎京子の言葉を借りるなら「永遠に交わる事のない二本の平行な線」。
生粋のロリータガールはパンクの服装をしてはいけない。
MILK、ヴィヴィアンの服を纏えば充分だ。(*「ミシン」はMILK
しかし生き様はパンクでエキセントリックであるべき。ギターを弾けずとも
かわいいキッチンでお菓子を作るのだって充分パンクだ。パイ生地なんてほとんど油脂だし。
「ファンの女の子が僕の真似をするのが怖い」というインタビューを読んだが
野ばらガールは「先生は繊細だからそういうのやってしまったのよね、わかります」
くらいではなかろうか。「ダメ、ゼッタイ」のメッセージは伝わってくる。
文章は相変わらず美しくわかりやすく、装丁は今までの路線ではないが良い。
教科書に載っている芥川龍之介にちょっと頬を赤らめる文系少女っていいよね。
ロリータはファッションではない。哲学だ。
ファッション誌を部屋に置いておくのは美観を損ねるが、野ばら本を本棚に
並べておくのはいいと思う。(着こなしについてもおもしろい
大槻ケンヂが「余計なヒラヒラがいっぱいついてる服を着てる子が好き」と言うのと
何かあんま大差ない気がしてきた。気のせいだろうけど。
・フラニー
任侠沈没

任侠沈没 山口正人(著) 日本文芸社
「……もし…… 大紋寺さんが
本当に宇宙まで 行ってしまっていたら
もう 生きてはいないでしょう
あの人は… あんな人ですけど…
一応… 生身の人間ですから…」
全3巻。
漫画に限らず、フィクションを楽しむときにはリアリティのレベルがどこに置かれてるのか、
どこに目を瞑ってどこにツッこむべきかの見極めを僕らは知らず知らずに行っている。
任侠と(日本)沈没。
ヤクザものと大災害ものを組み合わせましたよ、
と見るだけで分からせてくれる秀逸なタイトルで、
内容も妻子を組長に殺された主人公・大紋寺龍吾の復讐の旅を縦糸に、
第1巻では覚せい剤入りの炊き出しをして住民を顧客にしようとする暴力団や、
金銭ではなく農作物を賭ける丁半賭博、復興を諦め自衛に走る自衛隊、
といったいかにもなエピソードが続く。
リアリティ、と言う意味においてはタイトルに見合った荒唐無稽さである。
しかし、ストーリーは進むにつれ、荒唐無稽が加速する。
風野又三郎というキャラが現れる。ふざけた名前だ。
伊豆の孤島の刑務所に収監されていた死刑囚で末期がんの患者だが、
脱獄し、龍吾の命を狙いつつ旅に参加する。
問題は脱獄の方法だ。
病気と地震で食事を運ぶ看守がいなくなり痩せさらばえた体を襤褸に包み竜巻に乗るのだ。
漫画のテーマから演繹される守るべきリアリティの線が、
僕が勝手に引いた線ですが、超えられた瞬間である。
以後、オーバーな(過剰と言う意味でも超越という意味でも)表現が何度も現れ、僕を当惑させた。
そして、つられる様に龍吾の思考が単純化していく。
3巻全体で放たれる異様な空気感はどう言えば良いだろうか。
過剰な表現はギャグに通じる。
が、大地震で社会が崩壊しても任侠は消えず、NHKの集金人も消えなかった、
というエピソードが出て来ても、ギャグか、マジかの判断が僕には決められなかった。
ギャグで書いてても面白いが、マジで書いてたらもっと面白い。
多分両方なんだろうけど。
組長が乗る飛行船に追いつくべく、
スペースシャトルに間違って乗ってしまう(!)ラストに至って、
「えええぇーっ!」と僕は大声を上げて唖然とした。
わずか3巻で何度線を越えられたのだろうか。
クラクラとくるこの読後感は、間違いなく体に悪い。
・佐藤良寛
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